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​↑1列目左端が初代オーナー古賀健太郎 
 2列目左端の着物姿で笑顔が印象的なのが英子ママ
​↑初代ママ古賀英子
​↑新天通りの立派な看板
​↑ホステスは美人揃い
​↑懐かしの岡政デパート
少年時代の英人
​↑英人少年 田園の前で
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​↑今も現役の英子ママ
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​↑初代マスター健太郎
長崎の街とともに―

長崎市浜町の「浜市新天通り」に戦後まもなく店を構え70年が過ぎた「田園」
そのスタイルは茶房、サロン、クラブ、スナック…と変遷し
周りの風景やお店が次々と変わっていく中、

長崎のまちとともに歩み人々に愛され続けてきました
 

「田園」という屋号は初代オーナー古賀健太郎が好きだった

ベートーベンの交響曲第6番『田園』に由来しています

OPEN当初、戦後間もない貧困と混乱の中の昭和20年代には茶房として

その後クラブ・スナックとしてまさに時代とともに進化してきました

長崎にまだクラブが少なかった昭和20年代に立ち上げた「田園」

初代ママの古賀英子(健太郎の妻)は「田園」が還暦を迎えた年
「開業当時からイイお客様ばかりで、政治家や画家など著名人もよくお見えでした。
ホステスもインテリ揃いで、本当に上質なお客様に恵まれたと思います。
このお店を開いてもぅ60年が経っただなんて感無量。うれしいです。
でもね、案外60年と言うのは長いようで短かったわ。あっと言う間に感じます。
お客様や従業員、家族や仲間に感謝です。」
 
と振り返りました。


 

昭和30年代に入ると「キャバレー銀馬車」「クラブ古城」など長崎の夜は

クラブ・キャバレーの全盛期を迎えました。

まちには陽気な酔っ払いが気持ちよさそうに闊歩し、

馴染のお店をハシゴして飲み歩く、そんな時代だったといいます。


 

初代オーナー健太郎の息子:古賀英人(現 オーナー)は
「当時は思案橋も開けてきていた頃なんでしょうけど、

仕事終わりの三菱の方達とかが乗った船が大波止に着くと

そのまま浜の町辺りまで流れてきては飲み歩き・・・

もぅ夜中でも人と人の肩が触れ合う程の盛況ぶりだったと聴いています。
私が幼い頃の新天通り(田園がある通り)は近寄りがたい大人の雰囲気だったんです。
浜の町に来ても連れて行ってもらえるのは「浜屋」とか「岡政」の

デパートの屋上遊園地ぐらいで・・・、

父や母からは田園はもちろんこの通りにすらあまり連れて来てもらえなかった

記憶があります。」

と、幼き日の印象は鮮明です

それもそのはず、当時の新天通りには30軒を超える程の

飲み屋さんが軒を連ねていたといいます

昭和40年代に入るとクラブ全盛期も過ぎました
「田園」も世代交代

そして平成の時代に入ると、長崎の夜の街の景色も随分変わりました

「田園」はより音楽を中心としたスタイルへとカタチを変えるため

オーナー英人の同級生でミュージシャンの〝ミヤショー〟を店長に迎え

ジャンルを超えて様々な音楽人たちが集う店になりました

2007年9月2日には「田園60周年還暦LIVE」を大々的に開催!

常連さんや音楽好きが集まる華やかな一夜となりました

オーナー英人は徐々にカメラマンとして「田園企画」の事業も展開し

Music Barはミヤショーがワンマンスタイルで切り盛り

日本が新時代「令和」になり迎えた2020年5月

店長〝ミヤショー〟が独立することになり

Music Bar田園の営業は幕を下ろすことに

現在はオーナー英人がスタジオ兼カフェとして田園ののれんを守ろうと

店内の改装準備中です


これからもこの場所で、長崎の街とともに

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